可能性しかない。
NECがコンテンツビジネスを継続しない。その話を聞いた時、当時NECグループにいた池田の胸には大きな失望や怒りと共に、新しいアクションへの渇望や期待、そして抑えきれない興奮が込み上げてきた。10年以上もの間情熱を注いできたビジネスが見限られたというのは、確かに痛恨の一撃だった。しかし、それ以上に明るく輝く世界が見えていた。新しい技術やコンテンツ、サービスが次々と登場する、その果てしない可能性が見えたのである。この瞬間、池田は何かに取り憑かれたような感覚に陥った。会社を辞める時がきた。NECで20年近くのキャリアを積んだが、ここにいることに意味はない。未来が、可能性が、自分を待っている。決心は固まった。
池田は東京の港区で生まれ育った。田町に立ち並ぶ企業の中でも、当時IT業界で世界トップクラスだったNECグループを選ぶことは自然な成り行きだった。入社後はPC開発チームに参画し、ハードウェア開発にも取り組んだが、池田が本当に夢中になったのはコンテンツのデジタル化だった。
当時、CD-ROMによるマルチメディア事業の最前線にいながら、音楽や映像、ゲームなどあらゆるコンテンツがデジタルによって統合されていく可能性を大いに感じていた。インフラが脆弱で社会的にはまだ小さな存在だったが、池田にはそれが巨大な渦へと進化する種火に見えた。デジタルの波があらゆるものを飲み込み、形を変える未来。21世紀にはきっと驚くべき時代がやって来る──そして1990年代に入るとインターネットが商用化され、1999年i-modeの本格化によりモバイルとネットが融合する未来への道が開けた。それは、まさに池田が描いていたビジョンが現実となり、モバイルインターネットの時代が到来することの証明でもあった。いつでも、どこでも、誰もが自由にコンテンツを楽しめる時代へと変わる。その革命前夜に立ち会う高揚感は何物にも代えがたいものであり、池田は拡がる未来の可能性に確信を抱いていた。その最中に聞いたNEC撤退の話だった。
プライムワークスの誕生。
池田は行動に移した。モバイルの可能性に賭け、これまで築いてきた人脈に独立の意思を伝えた。自分と同じように、会社が新たな分野に不熱心なことに苛立つ仲間たちが次々と支援を表明した。彼らの応援は心強く、独立への手応えは確かだった。準備を進めるため、池田は懇意にしていたBN社の役員を訪ね、その伝手で一つの会議室を設立準備室として借りることができた。この役員が後に共同経営者となるとは、その時はまだ知る由も無かった。
当時のBN社の社員たちは不思議に思ったことだろう。見知らぬ外部の人間が自由に会議室を使っているのだから。しかし、インターネットの黎明期の混沌とした時代背景もあり、少々訳のわからない存在がいたとしても「まあそんなものか」と理解された。またこの時代は、インターネットとモバイルの爆発的な成長を予感していた起業家たちが次々に登場する時代でもあった。日本企業は新しい波に対しては慎重であるが、その波をしっかり捉える者には投資を惜しまない。池田は市場の拡大を確信し、大胆に動いた。不安など存在しない。資金調達もスムーズに進み、創業メンバーが揃った。そして、2004年4月19日、「プライムワークス」が正式に誕生したのである。池田の新たな挑戦は、ここから始まった。